自由な時間
前回は、しあわせとお金の関係から「しあわせ」 というものにアプローチしてみました。
今日は時間との関係からアプローチしてみます。
何で「しあわせ」 になることを考えるのに時間という概念が重要になるか。
そんなことはいうまでもないと思いますが、 わかりやすく極端な例えを挙げると、
これからしあわせになりたい、という人が、 最有力ツールであるお金を何億円と手に入れたとして、
しかし、命は明日まで、という場合、彼/ 彼女はしあわせになれるでしょうか。
ちょっと難しそうですね。
しあわせになるためには、時間が必要なのです。
「しあわせな人生を送る」というのは、 生まれてから死ぬまでの限られた時間、
それをできるだけしあわせな状態で過ごすということだと思います 。
だから、時間としあわせは切っても切れない関係にあります。
そして、 現時点から見て未来にあたるこれからの時間をしあわせな状態とす るためには、
それらの時間をどう過ごすかについての選択が、 どれだけ自由であるかが重要だと思われます。
これまたわかりやすく極端な例えを挙げると、
もし、これからしあわせになりたい、という人が、 終身刑で牢屋に入れられて強制労働をさせられている状態、
すなわち、今後の時間の過ごし方について、 全く自由がない状態であるとして、彼/ 彼女はしあわせになれるでしょうか。
ちょっと難しそうですね。
しあわせになるためには、 時間があるだけではダメで自由が必要なのです。
しかし、現実には、我々普通の一般人は、 この自由な時間というものが決して多くありません。
普通の人は、日中の大半の時間を働いて過ごし、 生活するための糧を稼がなければならないからです。
これをやめるわけには、なかなかいきません。
仕事を辞めても生活できる大金持ちでもない限り、 生活そのものが成り立たなくなります。
そんな状態では、たとえ仕事をしなくてよくなったとしても、 良い方の選択肢は増えず、
より不幸になる自由しかなくなってしまうのが普通です。
もし飢えて死んでしまえば、 時間そのものが無くなってしまいます。
そこで、多くの人は、働かなくても生活できる日を夢見て、 必死に蓄財しながら、
こんな不自由な日々が年金受給年齢まで続くのか... と溜息をつきつつ、こう呟くわけです。
「宝くじでも当たらないかなぁ」と。
しあわせについて考えると、 必ずといっていいほどお金の問題が出てくるのは、 きっとこういうことですね。
お金は、それそのものが人をしあわせにはしてくれないけれど、 しあわせになるための前提条件である
「自由な時間」は、ある程度お金があることで手に入れられる、 ということです。
これが最近、経済的自由といわれているものですね( もともとの本来の意味での「経済的自由」とは異なります。 念のため。)。
ちなみに、たとえ働かなくてもいいくらいお金があったとしても、 やっぱり今の仕事をやる、
という人がいます。
完全に自由意思で選択した行動をしながら、それでいて、 それにより生活もできてしまう。
それくらい楽しい、 またはやりがいのある天職を見つけられた人は、まさに「 しあわせ」ですね。
羨ましい限りです。
こういう状態を目指すほうが、 宝くじでウン億円当てることを目指すより、 まだ現実的なのでしょうけど、
こういった幸運に恵まれるのも、なかなかないことですね。
ヤサカ